小笠原諸島の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/26 09:08 UTC 版)
『小笠原民部記』によれば永禄7年(1564年)に同族の幡豆小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した。文禄2年(1593年)、文禄・慶長の役の帰陣に際して、「貞頼は小田原の陣以来数度の戦功にもかかわらずいまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は3つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている。また、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社がある。 享保12年(1727年)、貞頼の子孫を自称する浪人の小笠原貞任は、『巽無人島記』の記述をもとに貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、江戸幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出た。「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。またこれらの島々が小笠原貞頼にちなんで小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである。貞任の訴えにより幕府は一度渡航を許可したものの、奉行所が再度調査した結果、貞任は享保20年(1735年)に身分詐称による追放処分を受けた。
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