幡豆小笠原氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 06:24 UTC 版)
霜月騒動で戦死した伴野長泰の孫である伴野泰房は三河国太陽寺荘に逃れ、幡豆小笠原氏の祖となった。永正11年(1514年)小笠原定正が寺部城(幡豆城)を奪い居城としたとされる。海に面する城を中心に海上交易などを行っていたようであり、海賊衆として今川氏に仕えていたが、その後徳川氏に転じ、徳川家の海賊衆として三河湾や遠州の海上防衛を行っていた。当主の小笠原信元は陸上でも数々の合戦に参加している。そのまま幕臣となり、信元や孫の小笠原信盛など、江戸幕府の船手頭として知られる。 また、家康の数々の戦闘に参加した小笠原安元・安次の系統もこの幡豆小笠原氏であり、欠城は幡豆城の小笠原氏と密接に連携していたとされる。 流浪していた小笠原長時が同族の誼で一時滞在し、また、長時親子を徳川家康に取り持ったのがこの小笠原氏だとする話が残る。 徳川家康により任命された初代の長崎奉行であった小笠原一庵も、幡豆小笠原氏の一族とされる。 伴野氏は甲斐武田氏滅亡の天正壬午の乱にて一時滅びるが、伴野時長の六世孫の伴野貞元が徳川家旗本を務めた。また、八王子千人隊の甲斐志村氏の志村貞盈は、伴野時直の庶流の一族で江戸時代に徳川家旗本を務めた。
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