小田急バス勤務時代
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1958年(昭和33年)成城大学を卒業。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞社・日本経済新聞社などを受験したが失敗し、父のコネで小田急バスの試験を受けて同年に入社する。小田急バス入社後は吉祥寺営業所を経て、観光課に配属され観光バスツアーの企画を担当した。春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、父の友人である野田宇太郎の協力を得て「文学散歩」「史跡散歩」などのバスツアーに力を入れ、時にはバス車掌も務めた。その他に学生や老人会、企業などの慰安旅行、幼稚園の遠足や学校の修学旅行、さらには皇族のバス旅行も企画した。バス定期券を売り、車掌としての添乗業務では高齢者の体調に気を配り、雪の中でワイパーが壊れたバスの窓拭きをした。 小田急バス勤務中の1965年(昭和40年)に綏子(やすこ)夫人と結婚。もともと第一志望ではなかったもののバス会社の仕事にやりがいを見出していたこともあり、父親の後継者として政界入りする気持ちはなかったが、1963年(昭和38年)に父が脳出血で倒れ半身不随となり、地元(上田市)の後援会から政界入りを懇願されて1968年(昭和43年)10月、10年半にわたり勤務した小田急バスを退職した。 なお、政界入りの際は上田市を地盤とする旧長野2区から出馬し、小選挙区制導入後は長野3区選出となったが、羽田自身は東京6区に属する世田谷区に在住していた。
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