小田孝朝父子の幽閉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/21 02:17 UTC 版)
至徳3年/元中3年(1386年)5月、室町幕府は鎌倉府の要望を認めて下総国にあった旧小山領下河辺荘の鎌倉府御料所編入を認める決定をした。同荘は小山氏の旧領ということだけでなく、既に鎌倉府の直接支配が及ぶようになっていた武蔵国と新たに支配下においた下野国を結ぶ交通の要所であり、鎌倉から下野に及び鎌倉府の支配ラインを完成させる意味で重要な地域であった。ところが、同月27日になって小山義政の遺児である若犬丸が旧臣とともに突如小山で決起して小山氏の本拠地であった祇園城を占領する。足利氏満自身の出陣によって7月には小山軍は敗走したものの、若犬丸を捕らえることはできなかった。この結果、初期において小山軍鎮圧に失敗した木戸法季は責任を問われて下野守護を更迭され、小山氏とは同族である下総北部の結城基光が下野守護に就任した。 ところが、至徳4年/元中4年(1387年・北朝は8月に嘉慶に改元)5月になって若犬丸の支持者が小山での再蜂起を準備していたところ鎌倉府の古河代官に捕縛され、その自白から若犬丸が小田氏に匿われているとの情報を入手した。当時、在倉制によって孝朝は治朝ら息子2人とともに鎌倉に出仕中であった。激怒した足利氏満は、6月13日に孝朝親子を捕らえて幽閉し、7月19日には上杉朝宗を総大将として若犬丸捕縛を名目に小田城に向けて軍勢を派遣した。
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