小田城の遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:55 UTC 版)
小田城は、小田山の麓の交通と水利に恵まれた場所にある。築城当初は、本丸跡を中心に、四方に濠と土塁を廻らした単郭式の館であったといわれる。その後、戦国期になると城域を拡張して約40haになる平城が築かれた。当時、小田城の近くまで霞ケ浦の低湿地が広がっていたとされ、湿地や桜川を通じた水運で藤沢城、土浦城と連絡が取れていたとも考えられている。 何度も落城と奪還を繰り返していることから、防御に難のある城と言われているが、発掘調査の結果では水堀は底が障子掘となっており、本丸の三方の虎口には馬出が設けられるなど、相応に防御に気を配っていることが伺える。北虎口の馬出は、火災の後に構築されたことが判明しており、落城後に防御強化のために設けられたと考えられている。これらの改修が小田氏時代のものなのか、佐竹氏時代のものかは判然としない。 本丸からは二つの池を含む庭園の遺構が確認されており、小田家の格式の高さを示すものと認識されている。 本丸北側は市街地化が激しいが、水田となっている本丸南側は曲輪の遺構がかなり良好に検出されており、馬出などが復元されている。 かつては、筑波鉄道の線路が本丸の南東部から北西隅にかけて斜めに横切っていたが、筑波鉄道廃線後に路線の跡地がつくばりんりんロードとして整備される際、小田城本丸を横断する部分は、本丸土塁外側の南から西を周って迂回するコースに変更された。土塁北西隅部の線路跡は切通しとして残され、小田城歴史ひろば案内所から本丸を見学する際の誘導路および土塁の断面の展示として利用されている(トイレも設置されている)。
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