小田小右衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
元禄16年2月4日、細川家に預けられていた大石内蔵助も切腹をするが、介錯したのは小田小右衛門(おだ こえもん)という10石2人扶持の足軽であった。大石といえば1500石の家老でしかも主君の仇を取った立派なお方。一方自分は取るに足らない足軽。切腹の際に大石から身分を問われ、つい細川家で500石取りの物頭だと嘘をつく。大石は納得するが、介錯などした事のない小田は失敗し、二度斬りで大石は壮絶な最期を遂げる。 まったく同じ内容で講談『荒川十太夫』という話がある。切腹するのが堀部安兵衛、介錯人が荒川十太夫と人物の名が異なるだけで変わらない。一龍斎や神田は『荒川十太夫』を、それ以外の流派や上方では『小田小右衛門』を読むことが多い。 史実では、細川家で大石らお預かり義士の世話をしたのは堀内伝右衛門。自身の代で士分に取り立てられた成り上がりで、無神経な言動が多かった。酒の肴や下戸向けの菓子を「忘れた」と言って出そうとしなかったり、切腹の上意がある当日には義士を放置して帰宅してしまう(流石に同僚が馬で連れ戻した)。 細川綱利の「義士は堀内のような一代で武士になった出来星でなく、身分のある上士に介錯させるべし」との意向で、大石良雄は細川譜代家臣・安場久幸の介錯で切腹している。なお、堀内は抜擢してくれた綱利の死後、家老たちによって処罰され帰農したが、義士お預かりを書き留めた『堀内伝右衛門覚書』が史料として今に残る。
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