寛政一揆の背景
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三浦氏から代わって西尾より刈谷に移ったのは譜代の土井氏だった。例によって土井氏も財政の窮乏に喘いでおり、西尾藩主であった享保年間末ごろには参勤交代の道中費用にも不足する状態となっていた。このため土井氏は、三浦氏の先納金制度を継承したほか、年貢増徴のため寛延2年(1749年)に一斉検地を実施して、新たに開発した田畑を調べ上げた。また明和年間は作柄の悪い年が続いたが、藩側は引き続き先納金の調達を強行したため、領内諸村は江戸の商人である鹿嶋屋清兵衛から郷借をして上納に充てることになった。しかし領民側の執拗な先納金免除の願出により、藩側も明和6年(1769年)に一旦、今後は先納金を命じない旨を約したが、この約束は反故とされてしまった。また天明2年(1782年)は凶作となり、領民は先納金の返済・返還を強く望んだが、藩側はこの年が返済期限となっていた2,700両の先納金を返済しなかったばかりか、領内諸村より新たな借りつぎをする有様であった。 しかし、藩財政が窮乏し、諸村と領民が負担を肩代りする状況下においても、藩主の土井利徳は藩政に無関心であった。土井利徳は文人大名であり、和歌・放鷹など自らの趣味を捨てることなく没頭して、藩政は家老たちに任せきりであった。江戸から国許へ帰ると鷹狩を行い、歌や茶の湯の会を催した。このような利徳の態度に対して、物好みは江戸・国許双方共に慎むよう領民が訴える状態であった。利徳は天明5年(1785年)に財政改革を行うが状況は改善せず。改めて領内に御用金が課されるが諸村にこれを引き受ける手立てなどなく、江戸の鹿嶋屋清兵衛と大阪の大屋四郎兵衛より借用することによって辛うじて用立てることができた。 天明7年(1787年12月、利徳は隠居して子の土井利制が当主となった。しかし、このための入用金がさらに藩の財政窮乏に追い打ちをかけたため、窮余の策として天賜録という頼母子講による資金調達の道を開くが、財政は健全化するべくもなかった。
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