寛政の改革と酒株制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:30 UTC 版)
老中松平定信は、その著書『宇下人言』(うげのひとごと)の中でかなりのページ数を裂いて当時の醸造業界のあり方について触れ、「酒というものは値段が高ければ飲むことも少なく、安ければ飲むことが多い。民のために、物価の安定が望まれる日用品とはしょせん性格の違う商品である。多く入荷すれば多く消費し、少なく入荷すれば少なく消費するものである」と述べている。これは、酒を飲む人からみれば、頭で考えた理屈であって、現実社会から遊離した政治論文にすぎないと一見されるのだが、寛政の改革は彼のこの政治理念にもとづいて酒造統制をおこない、そのまま天明の三分の一造り令など制限策が継続された。 享和2年(1802年)ふたたび水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させ、不作や飢饉のときのための備蓄米として取っておこうという政策を打ち出した。このとき酒屋に課せられた供出米のことを十分の一役米という。 これまで酒屋たちは基本的に、幕府からどのような政策が下っても自分の商売に実質的な損をきたさないように、酒造株高と酒造米高の格差をうまく利用し、あらかじめ求められた数値を水増し申告しておくなどして対処してきたが、この十分の一役米に対しては今までの「商人マジック」が使えず、全国の酒屋たちは彼ら独自のネットワークにより対策を協議した結果、すなおに幕府に対して「これではやっていけません」と正面から窮状を述べて陳情するに至った。 驚いたことに結果的に幕府もこの陳情をすなおに受け止め、十分の一役米は享和3年(1803年)に廃止された。
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