富士塚の構造及び遺構と遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 19:34 UTC 版)
「森巌寺 (世田谷区)」の記事における「富士塚の構造及び遺構と遺物」の解説
森巌寺富士塚は、南側を流れる北沢川と西側に流れる北沢川支流に挟まれた台地上に立地している。富士塚の測量図によると、最高地点の標高は40.810メートルを測り、標高約30メートルの関東ローム層で形成された地山の上に存在した標高約37メートルの築山の上にさらに盛り土をして造られていた。富士塚には防空壕と推定される横穴2基と山頂部東西にそれぞれ1基、富士塚東側下段に1基の土坑の存在が確認された。 防空壕2基については、富士塚を自然地形と誤認して掘削したものと推定された。そのうち南側斜面の1基は天井部が崩落した状態で露出し、そのため富士塚自体もかなり上の方から崩落が見られた。山頂部の土坑については富士信仰に関連する遺物などは一切見つからず、特に西側土坑については根の朽ち木が確認されたため、かつて富士塚頂上付近に生育していたマツの木の伐採痕の可能性が高いとされた。山頂部の土坑2基は短期間で埋め戻されたと見られ、特に西側の土坑からはガラス製品やプラスチック製品、ガスのバルブなど近年の遺物が多く出土したことからゴミの廃棄穴として人為的に埋め戻された可能性が指摘された。 その他出土した遺物については、陶磁器類(皿、壺、椀、鉢、徳利等)や土器(焙烙)がある。森巌寺富士塚の発掘調査記録報告書の14頁から17頁にかけて、出土した陶磁器や土器類の一覧(合計15点)と写真が掲載されている。これらの陶磁器類や土器は近世末から近代初頭に作られたもので、富士塚改修時の盛り土から主に出土しているため、富士信仰に縁の深い遺物と推定される。一方でクロボクの出土はわずかに3点のみで、富士塚の大きさに比べるときわめて少なく、最大のもので重量が119.15グラム、最少のものに至っては13.44グラムにすぎなかった。 森巌寺富士塚については、渋谷区教育委員会が『世田谷下北沢森巌寺境内築山修築につき一札』という古文書を蔵している。この古文書は、1821年(文政4年)に三軒茶屋山吉講の新兵衛という人物が願主となって淡島森巌寺境内に造った富士塚についてのものである。その内容は、もともと森巌寺にあった「鍋島山」と呼ばれる築山に盛り土して造成した富士塚の手入れを山吉講中から下北沢村名主半蔵に頼むというものである。古文書の内容と発掘調査に伴う土層観察データには一致が見られ、富士塚の造成過程が明らかになった。
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