家族のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 08:17 UTC 版)
「コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)」の記事における「家族のその後」の解説
コンスタンチンの息子たちのうち、幼い末息子ゲオルギーを除くイオアン、ガヴリール、コンスタンチンそしてイーゴリは、1917年10月に政権を奪取したボリシェヴィキに逮捕された。ガヴリールのみは病気を理由にペトログラードに留められたが、それ以外の3人はウラル山脈にある小都市アラパエフスクに流された。彼らはエリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公、ウラジーミル・パーレイ公爵と一緒に数か月のあいだ抑留生活を送り、1918年7月の17日から18日にかけての夜半、ボリシェヴィキ政府の命令で虐殺された。彼らの処刑はエカテリンブルクでニコライ2世とその妻子が殺された翌日のことだった。彼ら6人の皇族の遺体は白軍が廃坑から回収し、その後中国の北京にある正教会に埋葬された。 ガヴリールはその後、マクシム・ゴーリキーの嘆願によって解放された。ガヴリールはゴーリキーが救うことの出来た唯一の皇族だった。ガヴリールは革命後に結婚した妻を連れてパリに逃れ、1955年に亡くなった。 未亡人となったタチアナは子供を連れてルーマニアに亡命し、その後スイスに移った。彼女は後に正教会の修道女となり、イェルサレムのオリーヴ山女子修道院の院長として1979年に死んだ。 コンスタンチンの妻エリザヴェータと一番下の二人の子供たちゲオルギー、ヴェラは、臨時政府の成立後も、10月革命後もパヴロフスクに留まっていた。1918年の秋、3人はスウェーデン王妃ヴィクトリアから招きを受け、ボリシェヴィキ政府からスウェーデンに船舶で亡命する許しを与えられた。3人はスウェーデンで2年を過ごし、その後ベルギーに移った。結局彼らはドイツのアルテンブルクに居を定めることになった。エリザヴェータは1927年にライプニッツで亡くなり、ゲオルギーは1938年にニューヨークで死んだ。残されたヴェラはソ連が東ドイツを占領する直前にハンブルクへ避難し、1951年にアメリカ合衆国に移住、2001年にニューヨークで世を去った。
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