宮武外骨による当初の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:27 UTC 版)
「賞罰的県名説」の記事における「宮武外骨による当初の説」の解説
賞罰的県名説を初めて公に主張したのは、明治時代のジャーナリストである宮武外骨の著書『府藩県制史』(1941年(昭和16年)刊))とされている。戊辰戦争で「勲功のあった『忠勤藩』の藩名は県名とし、刃向った『朝敵藩』や日和見の曖昧な態度であった『曖昧藩』の藩名の県名は一つもない」とし、これを明治政府による「永久不滅の賞罰的県名」「順逆表示の史実」と呼んでいる。 『府藩県制史』では、その論拠として「朝敵藩」や「曖昧藩」の改名事例を挙げている(表参照)が、いずれも廃藩置県の約4箇月後に行われた第1次府県統合の際およびその直後(約7箇月以内)の事例である。すなわち、府藩県三治制における命名規則に基づいて庁舎所在地の「都市名」による命名を原則としていた県名を、このときに庁舎所在地の「郡名」や管轄地域を象徴する「雅称」に改称したことが、戊辰戦争における「順逆」を反映しているという主張だと理解することができる。 この説は、東北地方や関東地方に「郡名」を県名としたところが多いという事実を、明治政府の支援に回った「忠勤藩」が多いとされる西日本に手厚く臨み、逆に奥羽越列藩同盟の東北地方と徳川幕府のお膝元であった関東地方には冷たく臨んだという解釈で理解しようとするものだといえる。 しかしながら、『府藩県制史』の論法は、旧藩の属性と県名との間に一定の「傾向」を見出して、その傾向に整合する政治的意思の存在可能性を指摘したものであり、その政治的意思が確かに存在していたという証拠や根拠は特に示されていない。また、この命名方針の発案者を井上馨であろうとしているが、単にその当時に関連政策を担当していた実務責任者であったというだけの根拠に基づく推測である。
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