宮武外骨リバイバル
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1967年、漫画評論家石子順造の紹介で、当時東京都立大生だった松田哲夫(のちに筑摩書房に入社して編集者となる)と出会って意気投合。松田とはマッチ箱のラベル絵の収集、宮武外骨の雑誌の収集、今和次郎の考現学の本の収集などを熱中して行う。松田はのちに筑摩書房でちくま文庫を創刊。赤瀬川の著作も多数収録されている。松田とは1985年に『学術小説 外骨という人がいた』を白水社から刊行して宮武外骨リバイバルを仕掛けている。1986年には、赤瀬川と吉野孝雄が編集した『滑稽新聞』の再編集復刻版を筑摩書房より刊行した。 なお、最初に外骨の雑誌『ハート』を赤瀬川に紹介したのは美術評論家の榧野八束(赤塚行雄)で、1967年に荻窪の古本屋で発見して「この珍本は、赤瀬川が所有すべきものだ」と興奮し、赤瀬川を古本屋に呼び寄せて購入させたという。
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