官職の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)
「コンスタンティヌス1世」の記事における「官職の整備」の解説
ディオクレティアヌス時代に整備された中央政府の組織はコンスタンティヌス1世治下で更に発展・整備された。宮廷には皇帝の飲食・衣装・ベッドメイクなど家政部門を担う寝室(Cubiculum)があったが、コンスタンティヌス1世時代にはそれを統括する宮内長官(Praepositus Sacri Cubiculi)とその補佐役である執事長(Castrensis sacri palatii)が置かれてこの組織を管理した。 旧来からの枢密院(Consistorium)では書記官長の役割が強化され、上級役職者や軍司令官への将軍への命令は書記官長から出されるようになった。文武官の長は伯(総監、Comes)の地位を与えられそのメンバーとなった。この組織が重要方針の策定や役人の任命を担った。 また、3世紀の危機の間に大きな権威を持つようになっていた近衛長官(Praefectus praetorio)の地位にも変更が加えられた。この役職は制度的には元来軍事面における皇帝の私的な使用人に過ぎなかったが、この頃までに司法や徴税、経済などの分野まで統括するようになり、皇帝に次ぐ権威・権力を保持して皇帝不在時にはその代理のような役割を果たすようにもなっていた。それだけにこの地位にある者の役割は重要であり、皇帝にとっては常に警戒を要する存在であった。コンスタンティヌス1世は新たに軍事長官(Magister militum)を設置し、近衛長官の職務内容を主として特定の地方における徴税・司法・行政・郵便・経済などの分野に限って文官化を目論んだ。『官職要覧(Notitia Dignitatum)』と呼ばれる文書の記録を信ずるならば、ローマ帝国はガリア、イタリア・アフリカ、イリュリクム、オリエンスという四つの道(Praefectura)に分割され、その下に管区(Dioecesis)、さらに州(Provincia)が階層的に設定された。そして近衛長官は実質的にそれぞれの道を管轄する職位になっていった。ラテン語の役職名が変更されることはなかったが、日本語では上記のことから4世紀以降、文官化したPraefectus praetorioは「近衛長官」ではなく「道長官」と訳す場合が多い。 また、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス時代に置かれていた貨幣管理長官(Rationaris summarum)を恩賜伯(英語版)(Comes sacrarum largitionum)に、皇帝領長官(Rationaris rei privatae)を皇帝領伯(Comes rei privatae)に改称し、収入や支出、皇帝の財産を管理させた。コンスタンティヌス1世はこの財務管理職の他にも各行政部門の長を設置し、更に各官庁を諸局長官(英語版)(Magister officiorum)に統括させた。この役職はそのほかに、帝国の東半部では部隊の指揮権や要塞の管理など軍事的な役割を担うようにもなっている。これは強大化し過ぎた近衛長官へ対抗させるための処置でもあった。これらは枢密院の構成員となる高官職であった。
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