官僚から銀行家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 07:06 UTC 版)
馬場は卒業順位の雪辱を果たしてその年の高等文官試験に首席で合格、晴れて大蔵省に入省した。こうして馬場は苦学の末にエリート官僚として立身出世するための最前席を掴み取ったが、彼はそこにじっとしていられるような男ではなかった。 この後馬場は、横浜税関監視部長、韓国統監府総務部経理課長を経て、1907年(明治40年)には法制局に転じ、1922年(大正11年)3月に政友会党内抗争の煽りで突如辞任した横田千之助の後任として高橋内閣の法制局長官となった。在任3か月で高橋内閣が総辞職したことで馬場も免官となったが、同年12月19日には貴族院勅選議員に勅任される。馬場は当時貴族院における政友会の別働隊的な行動をとっていた研究会に所属、やがて交渉と妥協に長けた折衝の名人として頭角を顕わし会派の中心的存在となっていく。 馬場はそれまで銀行畑とは縁がなかったが、1927年(昭和2年)には政友会の田中義一内閣の人事により日本勧業銀行総裁に就任、1936年(昭和11年)までその任にあった。勧銀総裁在任中、馬場は特に農村金融の充実に尽力した。彼は本来は正統的な均衡財政論者だったといい、浜口内閣の井上準之助蔵相による金解禁政策も支持していた。しかし勧銀総裁として金解禁後の不況による農村部の疲弊をつぶさに目にし、また満州事変以後ソ連と直接で国境を接することになって軍備の重要性を再認識したこともあり、この頃から積極財政主義に転向していったと考えられている。
※この「官僚から銀行家へ」の解説は、「馬場鍈一」の解説の一部です。
「官僚から銀行家へ」を含む「馬場鍈一」の記事については、「馬場鍈一」の概要を参照ください。
- 官僚から銀行家へのページへのリンク