安井息軒旧宅とは? わかりやすく解説

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安井息軒旧宅

名称: 安井息軒旧宅
ふりがな やすいそくけんきゅうたく
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮崎県
市区町村 宮崎郡清武町
管理団体
指定年月日 1979.05.22(昭和54.05.22)
指定基準 史8
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S53-12-039[[安井息軒旧宅]やすいそっけんきゅうたく].txt: 幕末の儒学者として著名な安井息軒は、幼名を順作、字を仲平、名を衡といい、寛政11年正月、〓(*1)肥藩士安井滄州(字は子全・平右衛門、名は完)の次男として、日向国清武郷中野の地に生まれた幼少よりよく書を好み文政3年1820)、大坂出て篠崎小竹門下生となったが、翌年、兄清渓(字は士、名は淳、通称文治)が死んだため、文政5年(1822)帰郷した文政7年(1824)、江戸に出、昌平坂学問所入って古賀〓(*2)庵の門下生となり、次いで松崎慊堂師事した
 文政10年(1827)、藩主伊東祐相に従って帰国し清武郷学明教堂の教授となって子弟教育尽力した天保2年(1831)、藩校振徳堂が完成すると、父滄洲はその総裁、息軒は助教に任ぜられたため、一家は〓(*1)肥に移住した。息軒は、その後天保9年(1838)、江戸定住し、藩や幕府仕え、三計塾を開いて谷干城等を育て多く論者をものして、明治9年(1876)9月麹町土手3番町で生涯閉じた
 息軒の宅跡は、清武川の東の台地上、旧侍屋敷一角にある。南には双石山・荒平山等が連なり、西には韓国岳等の山脈遠望される。道を隔てた北隣は明教堂跡である。宅跡は現在半九公園となっており、息軒当時地割崩れているため、当時宅地規模正確にはかることはできない天保2年一家の〓(*1)肥移住後中野旧家他人の手渡った
 その後大正12年旧家売家となって新町移されたが、跡地同年、町で買収し旧宅昭和4年に町で買い戻して現在地再建された。その際旧宅は、旧位置よりやや西の現在地建てられた。こうした変遷のため、旧宅は必ずしも旧規通りとはいい難いが、現状は、瓦葺平家建て、建坪62.7平方メートル、北に入口造り東向きである。内部は、8畳の床の間床の間に続く10畳の間、その裏に4畳半の間2間と台所設けられている。瓦葺改められたのは昭和40年で、以前茅葺であった
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