天才ジョッキー
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北海道静内郡静内町で生まれる。生後まもなく父親を亡くし、母親の再婚先の家に養子に入るという少年時代を送る。 中学三年の時、義理の兄が競走馬の育成牧場をしていた縁があって名古屋競馬の安達小八調教師に誘われ、騎手となることを決意。那須の騎手教養所(現在の地方競馬教養センター)長期12期生として入所、1969年4月11日公営中京競馬2Rでデビュー(アラ系四歳 1番ハチカスミ 4着)。同年4月20日公営中京競馬5Rで初勝利(アラ系四歳 4番リキイブン)。 2年後の1971年以降、1973年、1977年を除き、全ての年度において名古屋競馬のリーディングジョッキーとなり(成績は下記参照)、東海地区で最初の2000勝騎手にもなった(騎乗馬:ピチピチボーイ)。尚、1977年度にリーディングジョッキーの座を逸した理由は、騎手騎乗免許の更新を忘れていたことに起因するものだった。 とりわけ、アラブでの実績が目立つ。1983年の全日本アラブ大賞典では、トキテンリユウ(名古屋・安達小八厩舎)に騎乗して制覇。翌、1984年の同レースでは、12連勝中のキンカイチフジ(笠松・加藤保行厩舎)にテン乗りで騎乗しながらも、当時脂の乗っていた桑島孝春騎乗ローゼンガバナーとの競り合いを「持ったまま」でクビ差競り落として連覇を達成した。ちなみに同レースにおいて、南関東所属以外の連覇達成騎手は、坂本が最初である。 この他、名古屋競馬伝統のアラブ重賞競走であった名古屋杯では、スーパーライトやシナノリンボーといった馬に騎乗して制覇している他、1971年に創設された東海優駿(現・東海ダービー)の初代優勝騎手であり、1984年には大井競馬場で行われた第8回全日本リーディングジョッキーで優勝を果たした。 運命の年となる1985年、連対率は実に6割9分を記録しており、「前の馬の後ろ足と、自分の馬の前足が絡まないようにぎりぎりのタイミング計ってね、さっと横にずらして抜いたのよ。神業。」というほどの技術を持っていた。
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