大阪府第六尋常中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:10 UTC 版)
「大阪府立岸和田高等学校」の記事における「大阪府第六尋常中学校」の解説
1891年の中学校令一部改正により、従来各府県に1校ずつと決められていた中学校の設置について、府県内に複数の中学校を開設することが可能になった。これを受けて大阪府では、郡部に2校目の中学校を増設する計画を立てる。大阪府下の旧大名家で最大の石高を有していた岡部家の城下であった岸和田も、誘致に名乗りを上げた。しかし、このときの設置地は堺(現在の大阪府立三国丘高等学校)および八尾(現在の大阪府立八尾高等学校)、茨木(現在の大阪府立茨木高等学校)の3ヶ所と決まり、岸和田への誘致は実現しなかった。 その後も岸和田では中学校誘致運動が続けられる。1896年8月には泉北郡・泉南郡51か村の村長の連署で「尋常中学校設置願」が大阪府に出され、岸和田での中学校設置が求められた。そして1896年12月の大阪府会で、泉南郡岸和田村に第六尋常中学校を設置する議案が可決される。学校敷地は、現在地でもある岸和田村の旧岸和田城廓内が選定された。 1897年3月17日の大阪府告示第124号で、大阪府第六尋常中学校の設置が告示された。同年4月より開校準備事務を開始し、5月上旬に入学試験を実施する。1897年5月17日、岸和田村の泉南郡倶楽部(岸和田城三の曲輪の北端。現在の市役所来庁者用駐車場付近)を仮校舎とし、授業が開始された。 開校当初は校舎建築工事がまだ開始されておらず、仮校舎での開校となった。大阪府は校舎建築工事を後回しにしていたが、折しも1898年11月に陸軍大演習が泉南郡でおこなわれることになり、明治天皇が地域に行幸することになった。そのため明治天皇の休憩所としての使用を考慮し、校舎建設工事が急がれることになる。開校翌年の1898年5月には岸和田城二の曲輪の南東部、家老中家屋敷の跡地に校舎が完成し、現在地での教育活動が開始されている。
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