大阪府立岸和田中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:10 UTC 版)
「大阪府立岸和田高等学校」の記事における「大阪府立岸和田中学校」の解説
1901年3月の中学校令施行規則を受け、大阪府内の旧制中学校では従来の学校設置順の番号での校名をやめ、所在地の名称を冠した校名へと一斉に変更することにした。これに伴い、1901年4月に大阪府岸和田中学校と改称している。しかしその直後に出された文部省令第11号では、中学校・高等女学校の名称について「○○県立・○○郡立」などの形で設置者の名称を冠することとし、またその規則に沿っていない学校名については速やかに変更するよう指示した。このため大阪府内の中学校・高等女学校では、改称から2ヶ月後の1901年6月に全校一斉に「大阪府○○中学校/高等女学校」から「大阪府立○○中学校/高等女学校」への再改称を実施することになった。このため当校でも大阪府立岸和田中学校へと改称している。 1934年9月21日の室戸台風では木造校舎1棟が倒壊した。倒壊した校舎の下敷きとなり、生徒3人が死亡し21人が重軽傷を負った。災害後バラックの仮校舎を建てて復旧したのち、1935年により鉄筋コンクリート校舎建築に着手した。鉄筋コンクリート校舎は1938年に完成し、白色の建物だったため関係者からは当時「白亜の殿堂」と形容された(当時の校舎は建て替えのため現存せず)。 なお室戸台風からの災害復旧の際、岸和田市は「岸和田市南上町に2万坪の敷地を提供するから移転の上で復旧・改築してはどうか。従来の学校敷地は市民公園や小学校に充てたい」という構想を学校側に持ちかけたが、具体化はしなかった。 1944年には太平洋戦争の戦局悪化のため勤労動員も実施され、3年生以上の生徒が泉州地域の工場に動員されている。また1-2年生生徒についても校庭や郊外農園などの開墾にかり出された。また鉄筋コンクリート校舎は「白色は目立つため空襲時の攻撃目標になる」として、コールタールによる迷彩柄の塗装が施された。校舎の迷彩柄は、学校予算の関係で終戦直後には消せず、1952年になって白色に復旧した。
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