大邱における釜山橋頭堡の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:12 UTC 版)
「303高地の虐殺」の記事における「大邱における釜山橋頭堡の戦い」の解説
「釜山橋頭堡の戦い」および「大邱の戦い(英語版)」も参照 アメリカ第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将は、釜山橋頭堡の中央部、洛東江の河谷の入口にあたる大邱に司令部を構えていた。北朝鮮軍は、この地域に進出できさえすれば、多数の部隊を展開して相互に支援しながら前進することが可能となる。市街地の南側に洛東江、北側に山地のある大邱は天然の要害であり、国連側の支配地域に残っていた韓国の領土では釜山に次ぐ大都市であり、交通の要衝になっていた。大邱では、南から北へ、アメリカ第1騎兵師団、韓国第2軍の第1、第6歩兵師団(en)が布陣していた。ホバート・R・ゲイ(en)少将が指揮するアメリカ第1騎兵師団は、南側の洛東江に沿って線状に展開しており、第5(en)、第8騎兵連隊が川沿いに24kmにわたって陣を構え、第7騎兵連隊(en)が予備部隊として待機し、敵軍の渡河がどこで行われても対応できるように砲兵隊も配置されていた。 大邱で国連軍に対峙した北朝鮮軍は、南から北へ、第10(en)、第3(en)、第15(en)、第13(en)、第1師団(en)が布陣しており、得成洞から倭館近辺を経て軍威に至る前線を確保していた。北朝鮮軍は、尚州から大邱に入る洛東江河谷の回廊部を、更に南進するための主要な経路とすることを計画していた。北朝鮮軍は第105戦車師団の一部が攻撃を支援していた。 8月5日以降の北朝鮮軍の各師団は、国連軍が陣取る対岸へ渡河攻撃を何度も試み、大邱を陥れて国連軍の最終防衛線を崩壊させようとした。訓練と支援が十分であったアメリカ軍は北朝鮮軍の攻勢を押し返すことができたが、韓国軍は苦戦を強いられた。この頃から、北朝鮮軍と国連軍の双方について、それぞれ戦争犯罪が行われているという断片的な報告や噂が表面化するようになった。
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