大邱事件
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1976年10月、大韓プロレス協会は同年6月にモハメド・アリとの異種格闘技戦を行ったアントニオ猪木の韓国招聘を計画。その対戦相手として、アメリカで成功を収め韓国のプロレス界を代表するスターとなった朴が選ばれた(なお、朴は同年4月に行われた新日本プロレスの第3回ワールドリーグ戦に韓国代表として参加が予定されていた)。 試合はシングルマッチ2連戦となり、10月9日に大邱で前哨戦を行い、翌10月10日にはソウルで猪木のNWFヘビー級王座に朴が挑戦するタイトルマッチが組まれた。このうち、テレビ中継のなかった9日の大邱での試合は、猪木がプロレスの暗黙の了解を無視してシュートを仕掛け、朴の脊髄に肘を叩き込み、目の中に指を入れるなどの凄惨な結末となった。 当初は、テレビ中継のあるソウルでのタイトルマッチは猪木が勝つ代わりに、大邱での前哨戦は朴に勝ちを譲るという取り決めが交わされていたが、直前になって猪木が負けブックを一方的に拒んだため、結果としてリアルファイトになったとされている。また、猪木は事前の承諾なしにNWFの防衛戦が組まれたことに腹を立てていたという。興奮した朴のセコンド勢が「セメント! セメント!」とリングサイドに陣取って叫ぶなど、殺伐とした雰囲気の中で試合は行われたが、アメリカで真っ当なプロレスリング・ビジネスを続けてきた朴はリアルファイトに気乗りせず、やむなくリングに上がった。 試合はリンチに近いものとなり、レフェリーを務めたミスター高橋は、猪木のフェイスロックで朴は唇を自分の歯で切り、裂けた唇の間から歯が見えたほどだったと述懐している。結果はノーコンテスト。試合を目撃していた坂口征二は「(朴が)試合中に何か汚いことをしてきたから、猪木さんが怒って目に指を入れた」「アマリロにいた時にタッグを組んでいて仲が良かったから、心情的にちょっと…」などと語っている。 同日深夜、プロモーターの金斗満の要請で猪木が朴に謝罪、翌日のNWF戦は通常のプロレスが行われたものの(猪木のリングアウト勝ち)、ここでも勝敗を巡って猪木と主催者側は試合前に険悪な状況となり、テレビの生中継が入っているにもかかわらず、試合開始が1時間近くも遅れるという異常事態を招いた。
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