大連実業・沖縄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 10:27 UTC 版)
同年秋、岐阜県在住の田部の後援者が、田部を筆頭に杉田屋守らと関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団を計画するがマスコミ発表のみで頓挫。その際、コーモラントの幹部から料亭で千円という破格の契約金を記した小切手を提示され、水原は断ったが田部は受け取った、しかし有力者の事業の失敗で話は潰れ小切手は不渡りとなった、このため水原は巨人軍に復帰できたが。田部はプロ野球への道は閉ざされたという説がある。しかしこのチームの監督を田部が小西得郎に薦め、頓挫した事で大東京軍のマネージャーに相談、これが縁で鈴木龍二に会った小西が鈴木の気性に惚れ、その後職業野球とかかわる事になった。小西は「ぼくが明大入りの橋渡しをした田部のすすめで、実はぼくは"プロでやってみよう"という気になったんだよ。後年、私が日本のプロ野球に少しでもお役にたてたとしたら、いってみれば田部のおかげなんですよ」と話している。 こうして田部は1936年(1937年とも)日本を去り再び満州大連に渡る。当時の大連は日本から続々と、大きな仕事をやろうと胸をふくらませた男たちが渡って行った時期。田部はトラック運送業を始め事業も成功した。大連実業に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれる。1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場(準優勝投手)。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせた。1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場。1944年、大連で現地召集され、戦況悪化の激戦地、沖縄に向かう。 1945年、地上戦最中の6月、沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡したとされるが、没日ほか詳細は不明。満39歳没。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 1969年、野球殿堂入り。
※この「大連実業・沖縄」の解説は、「田部武雄」の解説の一部です。
「大連実業・沖縄」を含む「田部武雄」の記事については、「田部武雄」の概要を参照ください。
- 大連実業・沖縄のページへのリンク