大軌傘下へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 16:42 UTC 版)
大和鉄道は大軌による畝傍線建設が進んでいたころ、名張・宇治山田への延伸という壮大な計画を立て、桜井 - 名張間の免許を1922年に取得していたが、中小会社ゆえに資金的な問題で建設は不可能であった。 一方、大軌は自社の有する八木線(後の近鉄大阪線大和八木駅以西)を延伸して、大阪から伊勢神宮への快速参拝ルートを造り上げることを構想として持っていたが、大阪鉄道 (2代目)(後の近鉄南大阪線などを建設)やこの大和鉄道との競願になっていたため、自社単独では免許の取得は難しいと考え、早期に地元に密着した企業である大和鉄道を抑えなければと考えるようになっていった。それは、大和鉄道がこの名張への延伸免許を取得したことでいっそう顕著となり、大軌はあらゆる手を尽くして同社の株式を取得し、ようやく1924年にその過半数を抑え、取締役へ大軌の役員を就かせることに成功した。 傘下になると、大軌では早速自社の有する八木線を桜井駅まで延伸する免許を申請し、さらに大和鉄道名義で桜井 - 名張間の免許を宇治山田まで延長することを申請した。この時、国鉄の運営と私鉄の監督を行っていた鉄道省は、省が有する参宮線などとの競合を理由に難色を示したが、1927年には八木 - 桜井間と名張 - 宇治山田間の免許を結局交付している。 そして、伊勢への進出は金がかかり会社の経営に影響を及ぼすことから、大阪電気軌道と大和鉄道のいずれでもない新設会社で行うほうが良いという結論に至り、その結果設立された参宮急行電鉄(参急)に大和鉄道は免許を譲渡した。 同社によって宇治山田駅までの路線(現、大阪線・山田線)は、1931年までに全線が開通した。また遅れていた大和鉄道の国鉄桜井駅乗り入れも、1928年に果たされている。 しかし戦中の1944年には不要不急線として、大阪電気軌道畝傍線・桜井線(旧:八木線)と競合する田原本 - 桜井間を休止している。撤去された軌条はセレベス開発鉄道建設資材として神戸港へ発送し、分岐器類は常北鉄道大甕・日立市間の建設に、また橋桁は南海鉄道、阪神電鉄、三重交通、山陽電鉄等へ転用された。戦後には、線路敷も奈良県道14号桜井田原本王寺線に転用されている。
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