大軌の開業と住宅開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 04:43 UTC 版)
1925年(大正14年)に山本集落の南をかすめるように大阪電気軌道(現在の近鉄大阪線)の路線が延伸開業し、当地に山本停留所(現在の河内山本駅)が開業した。 線路は八尾(現在の近鉄八尾駅)付近から真東に方向を変え、さらにこの地で東からほぼ真南に方向を変えているが、小さな農村と田畑だけという開業当時の沿線状況からすると多少不自然に感じる。当初は八尾付近からまっすぐ南東方向・堅下方面へ敷設する計画であったが、沿線予定地付近で敷設反対運動が起き、土地の買収が進まなかったため、玉串川沿いに土地を所有する住友本社に土地の譲渡を打診し、ルート変更したとされる。後述の山本での住宅開発の絡みで計画が変更されたともいわれている。 この時、山本八幡宮、中野集落の南に山本停留所が開設されると聞いた付近の住民による反対運動が起きている。「若いモンが仕事せんと電車に乗って町へ遊びに行きよる。極道モンが増えよる。」などと年寄りが心配したという。 大軌線開業後の1929年(昭和4年)に住友合資会社により、当地での住宅開発が開始される。山本停留所の北側、大阪府立八尾高等女学校(現在の大阪府立山本高等学校)、八尾第二小学校(現在の八尾市立山本小学校)あたりまでの南北約1kmの範囲で先ず分譲された。立石街道沿いの辺りは商店が建ち並んで商店街を形成したが、現在は寂れてしまった。 山本停留所の南側 (現在の高安駅前交差点付近までの南北約1kmの範囲) の開発・分譲は停留所北側に比べると緩やかであった。駅前にわずかな期間だけ、芝居小屋があった。商店街が形成されるようになるのは太平洋戦争後だった。 1940年(昭和15年)に、住友財閥は山本周辺の土地を手放し、当時の八尾町に寄贈している。
※この「大軌の開業と住宅開発」の解説は、「河内山本」の解説の一部です。
「大軌の開業と住宅開発」を含む「河内山本」の記事については、「河内山本」の概要を参照ください。
- 大軌の開業と住宅開発のページへのリンク