大軌との合併へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 20:47 UTC 版)
国鉄吉野口駅への接続からスタートした吉野鉄道であったが、橿原方面へ延伸したことにより新たな局面を迎えることとなる。橿原 - 吉野間を直結する吉野鉄道は大阪 - 橿原間の路線を持つ大阪電気軌道(大軌)とそのライバル関係にある大阪鉄道(大鉄)にとって魅力的な路線であったのだ。 大阪阿部野橋を起点とする大鉄は阿部野橋 - 吉野間の直通列車を走らせることを計画し吉野鉄道と交流を始めた。ゲージが同じ1,067mm(狭軌)の大鉄は吉野鉄道に電車を乗り入れることができる。一方ゲージが1,435mm(標準軌)の大軌は橿原神宮前駅で吉野鉄道と接続するものの相互乗り入れは不可能で直通列車を走らせることはできない。そこで大軌は1928年(昭和3年)10月に橿原 - 吉野間の新線敷設の免許を取得する。大手の大軌が競合線を運行するとなれば吉野鉄道は存続の危機である。吉野鉄道は大軌の傘下に入ることを決定し1929年(昭和4年)8月1日に合併、大軌吉野線となった。 しかし大軌も大鉄の吉野鉄道への乗り入れは認めたため、大鉄は吉野鉄道と接続し合併直前の1929年(昭和4年)4月に接続地点(後の近鉄橿原神宮前駅の地点)に共同使用駅として久米寺駅が設置された。合併した大軌も自社の橿原神宮前駅から久米寺駅まで路線延長したため橿原神宮前 - 久米寺間は狭軌と標準軌の両方が走行できる珍しい三線軌条となった。 桜の時期ともなると両社は宣伝合戦を繰り広げたという。1930年(昭和5年)の時刻表で見ると大軌は上本町 - 久米寺間56分、久米寺 - 吉野間54分で計110分。大鉄は阿部野橋 - 吉野間117分、こちらは乗り換えなしなのでほぼ互角である。この合戦は1943年(昭和18年)に両社が合併するまで続いた。
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