大草は式の流派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 04:46 UTC 版)
大草は本来、式の流派である。料理の流派だと言ってしまっては、あまりに意味が小さすぎる。式と言う言葉は、形式的には色々な決まり事という意味である。大草での決まり事と言うのは、一言で説明するのは非常に難しい。やはり、式の流派だとしか言いようがない。つまり色々な式を守り伝えて行く流派なのである。守ると言っても、ただ無考えに守るのではなく、そこには日本人としての一つの哲学が通底している。しかし、大草のそれは武士の世界のものである。だから武士のいなくなった現代では、表面的にそぐわない事も多いが、一方で、考え方や仕組みはこの現代でも立派に通用する。日本は、非常に長く武士の支配下にあった。だから、その間に武士階級の中だけであった習わしが、いつの間にか下々にまで浸透していったのであろう。一般庶民の間でも、ハレの場面では、それが典型的な仕来たりとなって執り行われる様になって行った。ハレの場面と言うのは、今でもそうだが、饗応が付き物である。饗応では必ず、儀式的に飲んだり食べたりするものである。だから饗応を取り仕切った庖丁人は、相当に幅広く色々な仕来たりについて精通していなければならなかった。今現在の日本でも、それが迷信だと分かってはいても結婚式は仏滅を避け、葬儀は友引を避けると言う具合である。儀式など、格式張った事となると、今でも必ず古来の決まり事が仕来たりとして、フッと蘇り我々の身近に現れてくるのである。大草の理論は、大草だけにしか通用しないと言う様な、狭っ苦しいものは一つもない。もちろん、庖刀式にしか通用しないと言う様な閉鎖的なものも一つとしてない。だから大草が分かってくれば本当は色々役に立つのである。料理が出来ると、料理が分かるとは違う事である。もちろん、分かるだけではダメである。出来なければお話にならない。出来て分かれば申し分ない。大草がこだわる料理人と庖丁人の違いは、そこなのだ。何事においても、理論と技術は車の両輪なのである。
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