大英帝国の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:19 UTC 版)
1874年、成功裏にカナダ連邦を成立させたカーナーヴォン伯爵植民相は同様の枠組みを南アフリカにおいても実施しようとしていた。この計画のためにバートル・フレア(英語版)が高等弁務官として南アフリカへ送られた。この計画の障害の一つが独立した国家であるトランスヴァール共和国とズールー王国の存在だった。 1876年9月、ズールー王国での女子の大量虐殺(原因は年配の連隊戦士たちと結婚せよとのセテワヨの命令に反して同年代の男たちと結婚したことだった)に対してナタール行政府は強い抗議を行うが、現地行政府は管轄のアフリカ諸国の問題に対して横柄な態度を取る傾向があった。セテワヨとトランスヴァール共和国との国境問題も続いていた。セテワヨの友人だったナタール原住民問題担当長官テオフィルス・シェプストンは国境問題で彼を支持していた。1877年に彼は小部隊を率いてトランスヴァールへ赴きボーア人たちに独立を放棄するよう説得、これに応じたトランスヴァールは大英帝国に併合された。トランスヴァールの行政官となったシェプストンは立場を変えボーア側の利益に立って国境問題に当たるようになった。彼はズールー王国こそ英国の脅威であると高等弁務官へ報告している 。 フレアはズールーとの戦争は連邦化のために必要不可欠であると考え、南アフリカ最高司令官第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・セシジャー中将もこれに同意していた。だが、1878年にカーナーボンに代わって植民相となったサー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵はズールーとの紛争は交渉によって解決すべきと考えていた。これは当時、英軍が第二次アフガン戦争を戦っていた事情にもよる。植民省にとってはインドに隣接するアフガニスタンの方が南アフリカよりも重要だった。
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