大英博物館本の否定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
更に、通説の根拠の一つであった大英博物館本源頼朝像についても、その賛の内容などから江戸時代中期(18世紀)以降の成立であることが、黒田や日本中世史家の上横手雅敬によって示された。大英博物館本源頼朝像は1998年に修理のために里帰りし、翌年鶴岡八幡宮にて開催された『源頼朝公八百年祭記念 源頼朝公展』で公開されたが、この修理の際、画賛は後に書き加えられたのではないことが確認された。また、大英博物館本源頼朝像は大正9年(1920年)に山中商会から大英博物館に渡った作品であるが、それ以前に当作品の存在は全く知られておらず、伝来歴も不明である。大英博物館本を除くと、最古の写しは元禄11年(1698年)に狩野昌運によって写された聖福寺本だが、ほぼ同時期に描かれた源頼朝像(長勝寺、狩野洞雲筆)は、伝源頼朝像とは全く似ておらず、当時の狩野派内でも神護寺本伝源頼朝の図様が共有されていなかった事が判る。神護寺の伝源頼朝が頼朝のイメージとして定着したのは、『集古十種』や近代以降の教科書や画集などによる。 以上の米倉・黒田らによる新説の提示により、通説はその論拠のいくつかを失い、以降、通説と新説の間で大きな論争が続くこととなった。
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