大清帝国統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 04:12 UTC 版)
「大清帝国統治時代の台湾」を参照 1683年:清帝国が台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功。後に台湾を福建省に編入する。 1684年:福建省台湾府となる。 1732年:大肚王国が清軍の攻撃を受けて滅びる(大甲西社抗清事件)。 1787年:林爽文の率いる天地会が清朝への反乱を起すが、福康安の率いる清軍に鎮圧される。 1858年:天津条約によって安平港や基隆港が欧州列強に開港される。 1871年:牡丹社事件(琉球漂流民の殺害)。 1874年:日本による台湾出兵(牡丹社事件)が起きる。 1875年:獅頭社事件。 1884年:清仏戦争が発生して台湾もフランス軍に攻撃される。 1885年:福建省から独立して台湾省を新しく設置される。 1887年:基隆 - 台北間に鉄道を敷設する。 1888年:郵政総局が完成する。 1895年:下関条約(馬關條約)に基づいて台湾が清朝から日本に割譲され、台湾省が廃止される。台湾総督府設置(初代総督に樺山資紀)。
※この「大清帝国統治時代」の解説は、「台湾史年表」の解説の一部です。
「大清帝国統治時代」を含む「台湾史年表」の記事については、「台湾史年表」の概要を参照ください。
大清帝国統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:49 UTC 版)
1683年、大清帝国による台湾統治が開始されると、靖海侯施琅は無償教育を原則とする義学方式の「西定坊書院」を設立し教育の普及を図った。その後も1704年の崇文書院をはじめ、1683年から1895年の間に数十箇所の書院が設立された。これらの書院は官費もしくは官民共同により経営されており、民間により書院が設立されていた大陸地区と異なる性格を有していた。大清帝国の台湾での教育の責任者であった台湾府儒学教授と台湾府儒学訓導は台湾道及び台湾府に直属しており、その地位は官位以上に高かった。 当時の台湾では儒学、義学、書院以外に、小規模の民間により運営される書房が存在していた。いずれも八股文を主体とする教育体系であり、現代教育とはその内容を異にしていた。また閩南語を主体に教育を行い、北京官話は補助的に使用されていた。
※この「大清帝国統治時代」の解説は、「台湾の教育史」の解説の一部です。
「大清帝国統治時代」を含む「台湾の教育史」の記事については、「台湾の教育史」の概要を参照ください。
- 大清帝国統治時代のページへのリンク