ワリヤーグ
旧ソ連時代に設計され、ソ連崩壊後にウクライナが保有していた航空母艦(空母)の名称。中国に売却され、人民解放軍海軍の空母「遼寧」として2012年9月に就役した。
ワリヤーグは1990年代にウクライナから中国へ売却された。中国本国への引渡しが完了したのは2001年になってからである。名目上は、娯楽施設として転用するためとされていた。
2000年代半ば以降、ワリヤーグは空母として改修を進められていることが徐々に明らかになった。2011年7月になって初めて、中国国防省がワリヤーグを空母として利用することを認めた。
ワリヤーグの全長は約300メートル、排水量は約6万トン、乗員数は1500名以上とされる。複数門の対艦、対空ミサイルを搭載している。
ワリヤーグは中国における国産空母の雛形として研究された後、練習艦として就航する予定とされた。2012年9月25日に大連で正式に就航式が催され、「遼寧」と正式に命名された。なお、就航時点では艦載機はまだない。
施琅
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施 琅(し ろう、拼音: 、台湾語: Si Lông、1621年 - 1696年)は、明末清初の軍人。特に台湾の鄭氏政権の攻略など、水軍の運用に優れた提督として知られる。
生涯
福建晋江に生まれた。鄭芝龍の部下であったが、1646年(順治3年)鄭芝龍が清に投降すると、それに従った[1]。鄭芝龍の嫡子鄭成功による南明への反正を誘われ、一度帰順したが、再び離反したため家族が捕らわれた。この際、父兄以下家族は皆殺しにされている[1]。
1656年(順治13年)定遠大将軍済度の麾下で鄭成功の北伐を迎撃、撃退に貢献した功で同安副将となった。その3年後には台湾に拠った鄭成功に対する同安総兵の地位に就いている[1]。1662年(康熙元年)水師提督となり、鄭経に相対した。海澄をうかがう鄭経の軍を破り、耿精忠の蜂起(三藩の乱)にあっては、厦門にて戦闘を行い、オランダ人水兵を募ってこれに勝利し、反攻して金門島を含む2島を奪った。この功績で右都督となり、2年後には靖海将軍の地位が加えられた[1]。
1668年(康熙7年)には台湾侵攻を提案するがこれは通らず、内大臣となり鑲黄旗に属した。1681年(康熙20年)鄭経が死亡すると台湾侵攻の責任者として推薦され、福建水師提督と太子少保の地位を得た。翌年侵攻が決定すると1683年には鄭経の子鄭克爽を降し、靖海侯となった。東寧滅亡の日、鄭成功の廟で嗚咽涕泣する施琅の姿があった[2]。また、鄭一族の毒殺を進言されたこともあったが、これを退けている[1]。
1696年(康熙35年)、75歳で死去。諡は襄壮、太子少傅を追贈された[1]。息男は名臣で『施公案』ヒーローの施世綸。
出典
参考文献
- 奈良修一『鄭成功―南海を支配した一族』(世界史リブレット人 42) 山川出版社、2016年; ISBN 978-4634350427、ISBN 4-634-35042-4
関連項目
- 遼寧 (空母) - 中国国外のメディアで当初報道されていた艦名が施琅であった。
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