大気圧鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/20 09:12 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動大気圧鉄道(だいきあつてつどう)は、イザムバード・キングダム・ブルネルによって建設された、車両には動力を搭載せず、気圧差を利用して推進する鉄道である[1]。
概要
蒸気カタパルトのような構造で車両が走行する軌道に敷設された管内を減圧して車両に取り付けられた仕切り(ピストン)の前後に気圧差が生じると気圧差で車両が減圧された側へ推進する[2]。1847年から試験を行い、1848年の2月から9月まで運行されたが、管のシールやその他の問題で通常の蒸気機関の3倍近い費用がかかったため成功しなかった[3]。
ブルネルの減圧したチューブ内を走行する列車の概念はその後、数回にわたり高速鉄道のために採用される。
利点
車両には動力を搭載しないので構造を簡易化でき、当時の主な実用的な動力だった蒸気機関を車両に搭載しないので地下鉄に適していた。
欠点
推進効率が低く、単位輸送量に対して大掛かりな設備が必要で気圧差を維持するための管の機密性の維持が困難だった[4]。
脚注
- ^ ブルネルの大気圧鉄道による科学と技術教育の実践 (PDF)
- ^ ビクトリア時代の技術者:ブルネル父子(第9報 大気圧鉄道) (PDF)
- ^ 佐藤建吉 『ブルネルの偉大なる挑戦』 日刊工業新聞社、2006年。ISBN 4-526-05721-5。
- ^ ブルネルの大気圧鉄道に関する研究 (PDF)
参考文献
- The Plain Man’s (and Woman’s) Guide To Atmospheric Railways. NRM. pp. 68-81.
- Forrester, R. A, What was an Atmospheric Railway? Admin Service; reproduced from Clayton Howard,The Atmospheric Railway. Lichfield. (1966年).
- Report from the select committee on atmospheric railways; together with the minutes of evidence,appendix and indexs. (1845年).
- “Pearce, M., Brunel sucks!”. Steam Railway No.322: 57. (2006年).
- “Brunel, I., The Life of Isambard Kingdom Brunel”. Civil Engineer (Nonsuch Pub.). (1870年).
関連項目
外部リンク
- ブルネルの大気圧鉄道に関する研究*(第3報模型製作) (PDF)
- YouTube Video of 6500 km/h (4000 mph) Vactrain models
- Worcester Polytechnic Institute page discussing Goddard's achievements
- Evacuated Tube Transportation Technologies
- Evacuated Tube Transportation Technologies alternative site
- Vac Trains at Orion's Arm
- Rail Journal
- Popular science
- Hydrogen Tube Vehicle (PDF)
- China Plans 1,000 KPH Super Train
大気圧鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 21:27 UTC 版)
「ロンドン・アンド・クロイドン鉄道」の記事における「大気圧鉄道」の解説
1844年、L&CRは議会の権限を得て、既存の線路の隣に追加の線路を敷設し、大気圧鉄道をテストすることになった。ポートランド・ロード、クロイドン、ダートマス・アームズにポンプ場が建設され、走行するレールの間に敷設されたパイプの中を真空にした。パイプの中で自由に動くピストンは、革製のバルブで密閉されたスリットを通って列車に取り付けられていた。ピストンと列車は、大気圧によってポンプ場に向かって推進される。揚水機場はゴシック様式で建てられ、非常に高い装飾が施された塔は、煙突の役割と推進管から送り出された空気の排気口の役割を果たしていた。 建設工事の一環として、ジョリー・セーラーの南側に世界初の鉄道高架橋が建設され、既存の鉄道の上を蒸気鉄道のテスト線が通るようになった。1846年、鉄道はポンプ機関やバルブに多くの問題を抱え、株主と取締役の間に不満が生じた。8月に合併したL&BRから加わった取締役たちは、実験を続けることに興味を示さなかった。1847年、大気実験は中止された。ダートマス・アームズの機関庫は1851年に大部分が取り壊され、1928年にはその跡地に電気のサブステーションが建てられた。クロイドンのポンプ場の石は、現存するサリー・ストリートの水道ビルの建設に再利用された。ある歴史家によると、大気システムの使用は鉄道に50万ポンドの損害を与え、「悲しい大失敗」だったという。
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