大御所時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 学問 > 歴史 > 時代 > 大御所時代の意味・解説 

大御所時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:17 UTC 版)

徳川家斉」の記事における「大御所時代」の解説

詳細は「大御所時代」を参照 文化14年1817年)に松平信明病死した。他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由辞職申し出る者が出てきた。このため文政元年1818年)から、家斉側用人水野忠成勝手掛・老中首座任命し牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄奨励した。さらに家斉自身も、宿老ちがいなくなったのをいいこと奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令発するなどたび重なる外国対策として海防支出増大したため、幕府財政破綻幕政腐敗綱紀乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳大量発行行なっているが、これがかえって物価騰貴などを招くことになった天保5年1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行京都所司代から西丸老中となった水野忠邦その後任となる。しかし実際幕政家斉側近である林忠英らが主導し家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第幕府対する不満が上がるようになり、天保8年1837年2月には大坂大塩平八郎の乱起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱はじめとする反乱相次いで次第幕藩体制崩壊兆し見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気高まった

※この「大御所時代」の解説は、「徳川家斉」の解説の一部です。
「大御所時代」を含む「徳川家斉」の記事については、「徳川家斉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大御所時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ




大御所時代と同じ種類の言葉

このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から大御所時代を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から大御所時代を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から大御所時代 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大御所時代」の関連用語

大御所時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大御所時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家斉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS