大学入学からアメリカへの留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 11:25 UTC 版)
「ベンジャミン・W・リー」の記事における「大学入学からアメリカへの留学」の解説
ベンジャミン・リーは検定考試(日本の高等学校卒業程度認定試験に該当)を受けて大学入学資格を取得し、1952年にソウル大学工学部化学工学科に首席で入学した。入学後、化学より物理学に大きく興味を抱き、以後文理科部物理学科への転科を試みたものの、大学側は文理科部物理学科への転科を許可しなかった。彼は独学で物理学を勉強し、朝鮮戦争参戦米軍将校婦人会の留学奨学生に選抜されたため、ソウル大学を自主退学し、1955年1月にアメリカのマイアミ大学物理学科の3年生課程に編入学した。 1956年、物理学科を優秀な成績(スンマ・クム・ラウデ(Wiktionary:summa cum laude))で卒業し、ピッツバーグ大学大学院に進学した。 大学院では、ティーチングアシスタント(TA)として、工学科と医学科の学生たちの物理学実験を担当した。翌年の秋学期からはリサーチアシスタント(RA)を兼職するようになり、実験の指導だけ担当していたところから正式に1つの講義を割り当てられた。この頃、物理学で本格的に素粒子物理学、正確には場の量子論の専攻を希望するようになった。 ベンジャミン・リーはピッツバーグ大学大学院の博士課程進級試験に首席合格し、1958年に修士学位を取得した。修士論文の題名は〈On the Analytic Properties of the S {\displaystyle S} -Matrix with Some Application〉である。 彼はピッツバーグ大学大学院の博士課程への進級を予定していたが、シドニー・メシュコフは彼の才能を惜しみ、ペンシルベニア大学のアブラハム・クラインに推薦した。クラインは彼の才能を認め、博士学位資格試験である予備試験を免除させ、さらにハリソンフェローシップ(Harrison Fellowship)に推薦した。 ベンジャミン・リーはクラインと共同研究を行い、1960年11月に〈Study of K + N {\displaystyle K^{+}N} Scattering in the Double Dispersion Representation〉でPh.D.を授与された。その後、1961年8月まで、彼はペンシルベニア大学の博士研究員及び専任講師に任用された。 以後ベンジャミン・リーはプリンストン高等研究所の任期1年の研究会員に招聘されたが、クラインの配慮で1961年度から助教授に任用されたため、プリンストン高等研究所の任期が終了してからの心配は要らなくなった。 ベンジャミン・リーはプリンストン高等研究所に赴任する前、アメリカ各地の大学教員に任用されバラバラになる同年の同僚たちと記念で共同論文を執筆し、これを『レビュー・オブ・モダーン・フィジクス』に投稿した。
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