大井競馬時代(1986-88年)
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「イナリワン」の記事における「大井競馬時代(1986-88年)」の解説
1986年12月9日、大井競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)でデビュー。2着に4馬身差を付けて初勝利を挙げる。続いて翌1987年の正月競馬に登録を行ったが、出走を取り消した。春の目標とした羽田盃、東京ダービーを断念したものの、以後連勝。秋には南関東三冠の最終戦である東京王冠賞に出走、チャンピオンスターに1馬身差を付けて優勝し、重賞初制覇を果たした。暮れは「出てくれば当然1番人気と思われた」(林重治郎)東京大賞典ではなく、船橋競馬場の新設重賞である東京湾カップを選択し、勝利を挙げ、8連勝とした。 翌1988年、3月3日の金盃は苦手の重馬場となる中、2番人気で出走。スタートで出遅れて追い込んだが、先に抜け出したチャンピオンスターに届かず3着、初の敗戦となった。続く帝王賞も当日の降雨で重馬場となり、2番人気に推されたが、後方待機のまま7着。その後はオールカマーからジャパンカップ出走を目論んでいたが、オールカマーの地方競馬代表には選出されなかった。またもや重馬場となった8月の関東盃では、イーグルシャトーの逃げに敵わず5着、11月2日の東京記念は3着に敗れた。11月23日には、全日本サラブレッドカップの招待馬に選出、初めて笠松競馬場に遠征し出走した。スローペースの2番手につけたが、後方から追い込んだフェートノーザンに第3コーナーから最終コーナーかけてかわされ2着。後に宮浦は、仕掛けを遅らせたことを自らの騎乗ミスであると振り返っている。 12月29日の東京大賞典では、勝利した暁には中央競馬に移籍し天皇賞・春を目指すと宣言した。東京王冠賞、ダービーグランプリなど6連勝中だったアエロプラーヌが1番人気、アラナスモンタが2番人気と続き、3番人気で出走。アエロプラーヌがスローペースで逃げる一方、宮浦は控える戦法を選択した。直線で末脚を見せると、代わって先頭となったアラナスモンタを半馬身差し切って勝利。宮浦にとっては、1978年のハツシバオー以来2回目となる東京大賞典優勝であった。保手浜は、改めて中央競馬への移籍を宣言、翌年の天皇賞(春)と宝塚記念を目標とし、岡部幸雄とともに参戦する計画も併せて発表した。翌1989年1月10日、地方競馬の競走馬登録を抹消し、美浦トレーニングセンターの鈴木清厩舎に転厩した。以降、福永はアドバイザーとしてイナリワンへの関与を継続している。
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