大井競馬時代とは? わかりやすく解説

大井競馬時代(1986-88年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:58 UTC 版)

イナリワン」の記事における「大井競馬時代(1986-88年)」の解説

1986年12月9日大井競馬場新馬戦ダート1000メートル)でデビュー。2着に4馬身差を付けて勝利を挙げる続いて1987年正月競馬に登録を行ったが、出走取り消した。春の目標とした羽田盃東京ダービー断念したものの、以後連勝秋に南関東三冠最終戦である東京王冠賞出走チャンピオンスター1馬身差を付けて優勝し重賞初制覇果たした暮れは「出てくれば当然1番人気と思われた」(重治郎)東京大賞典ではなく船橋競馬場新設重賞である東京湾カップ選択し勝利を挙げ、8連勝とした。 翌1988年3月3日金盃は苦手の重馬場となる中、2番人気出走スタート出遅れ追い込んだが、先に抜け出したチャンピオンスター届かず3着、初の敗戦となった。続く帝王賞当日降雨重馬場となり、2番人気推されたが、後方待機のまま7着。その後オールカマーからジャパンカップ出走目論んでいたが、オールカマー地方競馬代表には選出されなかった。またもや重馬場となった8月関東盃では、イーグルシャトーの逃げに敵わず5着、11月2日東京記念は3着に敗れた11月23日には、全日本サラブレッドカップ招待馬に選出初め笠松競馬場遠征し出走したスローペース2番につけたが、後方から追い込んだフェートノーザン第3コーナーから最終コーナーかけてかわされ2着。後に宮浦は、仕掛け遅らせたことを自らの騎乗ミスであると振り返っている。 12月29日東京大賞典では、勝利した暁には中央競馬移籍し天皇賞・春目指す宣言した東京王冠賞ダービーグランプリなど6連勝中だったアエロプラーヌが1番人気、アラナスモンタが2番人気続き3番人気出走。アエロプラーヌがスローペース逃げ一方宮浦控え戦法選択した直線末脚見せると、代わって先頭となったアラナスモンタを半馬身差し切って勝利宮浦にとっては、1978年ハツシバオー以来2回目となる東京大賞典優勝であった保手浜は、改め中央競馬への移籍宣言翌年天皇賞(春)宝塚記念目標とし、岡部幸雄とともに参戦する計画併せて発表した。翌1989年1月10日地方競馬競走馬登録を抹消し美浦トレーニングセンター鈴木清厩舎転厩した。以降福永アドバイザーとしてイナリワンへの関与継続している。

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