大井競馬所属時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 11:15 UTC 版)
1981年6月、大井競馬場の新馬戦でデビューし、2着馬に10馬身差をつけて逃げ切り勝利。続いて2戦目9馬身、3戦目7馬身差、4戦目2馬身で4連勝を達成した。11月24日、3歳チャンピオン決定戦の重賞である青雲賞に出走。最終コーナーで先頭に立ち、後方に3馬身の差をつけて勝利し、5連勝で重賞タイトルを獲得した。朝倉は、当初早熟と捉えていたが、筋肉量を増やして馬体重を増やしつつ連勝する姿に「とてつもない大物」と考えるようになった。 4歳になった1982年、2月の京浜盃で始動。2馬身半差をつけて逃げ切り6連勝。続く黒潮盃も逃げ、騎乗した西川栄二が1コーナーで勝利を確信したほどであった。最終的に5馬身差、レコードタイのタイムで優勝した。レース後、渡辺は羽田盃、東京ダービーの二冠を手土産に中央移籍というプランが、馬主の渡辺によって明らかにされた。5月の羽田盃では、ダイシンシラユキが出ムチを入れて競りかけにいったが、並ばせることが無いまま同馬に1馬身半差をつけ優勝。南関東三冠の一冠目を制した。しかし、続く東京ダービーを目前にして膝蓋靭帯炎を発症。出走取り消しを余儀なくされ、二冠達成はならなかった。
※この「大井競馬所属時代」の解説は、「ホスピタリテイ」の解説の一部です。
「大井競馬所属時代」を含む「ホスピタリテイ」の記事については、「ホスピタリテイ」の概要を参照ください。
- 大井競馬所属時代のページへのリンク