地獄の釜の焦げ起こしとは? わかりやすく解説

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地獄の釜の焦げ起こし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 21:52 UTC 版)

出口なお」の記事における「地獄の釜の焦げ起こし」の解説

なおは1837年1月22日天保7年12月16日)、大工の父/五郎三郎と母/すみの長女として福知山藩領の丹波国天田郡上紺屋町(現福知山市上紺屋町)に出生折から天保の大飢饉のため両親は減児を相談したが、気難しい姑が断固反対し生を得ることが出来た。だが苗字帯刀許されたほどの村家五郎三郎放蕩により没落五郎三郎はなおが11歳10歳とも)の時コレラ急死した。なおは下女奉公出て働くようになる嘉永2年1849年)には福知山藩朽木綱張より集落孝行娘として表彰されるほど真面目な働きぶりが評判だった。米屋呉服屋など幾度か勤め先替えたが、どの家々でも信頼される同時にシャーマン素質見せることがあった。また信仰心篤さ幼少時から変わらなかった。江戸時代末期福地山や綾部含め各地お蔭参り発生しており、なおも何らかの影響受けた可能性指摘されている。 1854年安政元年)、綾部出口ゆり(なおの叔母)の強い要望により、養女となって出口家を相続するが、最初から財産争い巻き込まれた。出口菩提寺10歳のなおが初代出口政五郎喪主になったことが記録されており、既に入籍済みだった可能性もある。 1855年安政2年3月20日旧23日)には宮大工四方豊助(婿養子となり出口政五郎の名を襲名)と結婚する政五郎弟子達に慕われる名大工だった楽天家浪費家という欠点があり、資産家だった出口家は数年没落した。なおは出稼ぎ饅頭屋などの内職をして家計支えた子供11人をもうけるが、3人は夭折し、3男5女が成人した全員を家で養うことは出来ず10歳ならないうちにほとんどの者が奉公出ている。五女(後の大本二代目教主出口すみ(澄)は1883年明治16年2月3日旧1226日)に生まれた1887年明治20年3月負傷して寝たきりになっていた政五郎死亡する。なおは52歳32年間の結婚生活だった。さらに嫁いだ長女三女一時的に発狂養女行った先の本宮村も、殺人強盗殺人偽札造りにより終身刑となった者が1人ずつ、自殺者が5人、まともな家は2、3軒しかなかったといわれる長男自殺未遂のあと失踪次男近衛兵として徴兵され、後に戦死次女駆け落ちするなど、子供たち巡って苦労重ねた。なおは「地獄の釜の焦げ起こし」と呟いたほどだった。大本開祖としての自伝でも「この世にはまずない苦労いたした」と回顧している。『直は名刀政五郎砥石』と表現され、夫・政五郎無責任な態度や行動がなおを人間的に成長させ、大本基盤作ったとする。

※この「地獄の釜の焦げ起こし」の解説は、「出口なお」の解説の一部です。
「地獄の釜の焦げ起こし」を含む「出口なお」の記事については、「出口なお」の概要を参照ください。

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