国際都市上海の中でとは? わかりやすく解説

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国際都市上海の中で

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 21:56 UTC 版)

上海交響楽団」の記事における「国際都市上海の中で」の解説

このパブリックバンドが、20世紀入ってドイツから招聘した演奏家を各パート配置しブラスバンドからオーケストラへの脱皮を図るようになる1922年に「工部局交響楽隊(中国語版)」(Shanghai Municipal Orchestra)と改称しイタリア人指揮者マリオ・パーチ(1878年1946年)のもと本格的オーケストラとしてスタートすると、次々ロシア人演奏者採用した当時西洋音楽演奏するには、フィリピン人よりも西洋人がふさわしい」という考え方根強く1920年代末にはメンバーの6割がロシア人になった当時上海にやってきたロシア人中にはロシア革命前からサンクト・ペテルブルクモスクワ音楽院などで高度な専門教育受けた演奏家教育者としてキャリア積んでいた者も多かったすぐれた指揮者指導と、それに応え得る団員達により、「極東一」と言われるほどの演奏水準誇った。また租界に住むロシア人ピアニストや声楽家などが頻繁にソリストとして舞台に立ち、演奏会曲目多様になっていく。1936年4月合唱団として「ロシアン・コーラル・ソサイエティ」が参加しベートーヴェンの「第九」が上海初演された。さらに1939年11月の「水晶の夜事件ののち、多くユダヤ人難民シンガポール経由上海辿り着いたが、このユダヤ人難民の中では、音楽家が相当の割合占めていた。難民救済委員会が行った職業登録の統計によれば、5120人のうち260人が音楽家だった。かつてケルン室内管弦楽団首席チェリスト務めたこともあるヴァルター・ヨアヒムは、当時工部局交響楽隊のコンサートマスターだったアリーゴ・フォアの目に留まり上海交響楽隊に入団することになった団員工部局正規職員であるから難民にとっては願ってもないポストであった

※この「国際都市上海の中で」の解説は、「上海交響楽団」の解説の一部です。
「国際都市上海の中で」を含む「上海交響楽団」の記事については、「上海交響楽団」の概要を参照ください。

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