国際都市上海の中で
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このパブリックバンドが、20世紀に入ってドイツから招聘した演奏家を各パートに配置し、ブラスバンドからオーケストラへの脱皮を図るようになる。1922年に「工部局交響楽隊(中国語版)」(Shanghai Municipal Orchestra)と改称し、イタリア人指揮者マリオ・パーチ(1878年~1946年)のもと本格的オーケストラとしてスタートすると、次々にロシア人演奏者を採用した。当時「西洋音楽を演奏するには、フィリピン人よりも西洋人がふさわしい」という考え方が根強く、1920年代末にはメンバーの6割がロシア人になった。当時、上海にやってきたロシア人の中には、ロシア革命前からサンクト・ペテルブルクやモスクワの音楽院などで高度な専門教育を受けた、演奏家や教育者としてキャリアを積んでいた者も多かった。すぐれた指揮者の指導と、それに応え得る団員達により、「極東一」と言われるほどの演奏水準を誇った。また租界に住むロシア人ピアニストや声楽家などが頻繁にソリストとして舞台に立ち、演奏会の曲目も多様になっていく。1936年4月、合唱団として「ロシアン・コーラル・ソサイエティ」が参加し、ベートーヴェンの「第九」が上海初演された。さらに1939年11月の「水晶の夜」事件ののち、多くのユダヤ人難民がシンガポール経由で上海に辿り着いたが、このユダヤ人難民の中では、音楽家が相当の割合を占めていた。難民救済委員会が行った職業登録の統計によれば、5120人のうち260人が音楽家だった。かつてケルン室内管弦楽団の首席チェリストを務めたこともあるヴァルター・ヨアヒムは、当時工部局交響楽隊のコンサートマスターだったアリーゴ・フォアの目に留まり、上海交響楽隊に入団することになった。団員は工部局の正規の職員であるから、難民にとっては願ってもないポストであった。
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