国民的歌手・指揮者として活躍
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「藤山一郎」の記事における「国民的歌手・指揮者として活躍」の解説
1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べているが、池井優によると、背景には、かねてから藤山がレコード会社の商業主義に対する疑問があり、さらに俳優が脚本を読んだ上で出演を決めるように希望する歌を歌いたいという気持ちもあった。1961年(昭和36年)には筑摩書房発行の『世界音楽全集』第13巻声楽(3)においてフォスター歌曲を独唱し、編曲も担当している。 1965年(昭和40年)、NHKの許可をとって出演した東京12チャンネル(後のテレビ東京)制作の『歌謡百年』がヒットした。『歌謡百年』はベテランの歌手が昔懐かしい歌を歌うというコンセプトの番組で、後に『なつかしの歌声』とタイトルを変え、なつかしの名曲ブームを巻き起こした。藤山は、クラシックの香りのするホームソングを主体にしていたが、1958年以降は紅白歌合戦にも数回を除いて歌手としてではなく指揮者として出演していたが、再び歌手として人気を集めるようになった。紅白歌合戦には、1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として連続出演した。
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