四代目豊島半七として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:55 UTC 版)
「豊島半七 (四代目)」の記事における「四代目豊島半七として」の解説
1939年(昭和14年)には一宮商工会議所の副会頭となり、1946年(昭和21年)には一宮商工会議所の会頭となった。1942年(昭和17年)には商号を株式会社山一商店から豊島株式会社に変更している。太平洋戦争後には吉田内閣のデフレ政策が繊維業界に大きな影響を与え、糸岡、春日井、富永商事、岩田商事などの有力商社が相次いで倒産した。 その一方で豊島株式会社は、1950年(昭和25年)の取扱高が118億円、1954年(昭和29年)には296億円、1958年(昭和33年)には583億円と、着実に成長を続けた。1961年(昭和36年)の年商高は708億円であり、資本金・取扱高・利益率などは中部地方の繊維商社の中で群を抜いていた。従業員は約150人であり、従業員1人あたり5億円弱を稼ぎ出していた。 「Category:日本の実業家」を参照 愛知羊毛紡績会の会長、中部合成繊維紡績会の会長、日本商工会議所の常議員など、約200の公職について、一宮市/愛知県の繊維業界の発展に貢献した。1962年(昭和37年)1月21日に死去すると、3月29日には一宮市議会で一宮市名誉市民に推挙された。 1964年(昭和39年)頃には遺族が一宮市に1億円を寄贈。伊藤一市長は寄付金全額を一宮市立豊島図書館建設に充て、館長室には第四代豊島半七の胸像が据えられた。遺族は館名に豊島の名前を入れることを固辞したが、一宮市が説得して豊島を冠した名称となった。2013年(平成25年)に一宮市立中央図書館が開館したことで豊島図書館は図書館としての役目を終え、2015年(平成27年)には一宮市博物館に附属する豊島記念資料館としてリニューアル開館した。
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