営団の設立と経営からの引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 18:37 UTC 版)
「早川徳次 (東京地下鉄道)」の記事における「営団の設立と経営からの引退」の解説
しかし、昭和15年(1940年)12月に東急の総帥・五島慶太率いる東京高速鉄道(銀座線渋谷駅 - 新橋駅間建設)との間で経営権や駅の設計(五島は3両分のプラットホームを計画していたが、早川は乗客数増加を見込んで6両分のプラットホームを要求)、列車の直通運転に関する争いが勃発する。1939年(昭和14年)に五島は早川と同郷の友人である穴水熊雄から東京地下鉄道の株式35万株を譲渡される。 当時の鉄道省の思惑(地下鉄の国営化を目論んでいた)も絡み、東京地下鉄道と東京高速鉄道の和解の条件として早川の引退が含まれ、両社の事業は新設された帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡されることが決まり、1940年には地下鉄事業を取り上げられる形で実業界から去ることとなった。なお、後任の5代社長には中島久萬吉が就任する。 その後、故郷の山梨へ帰郷する。早川は郷里における人材育成のため在職中から早川家の生家地内に「青年道場」を作る計画を立てていた。早川は帰郷すると「青年道場」の設立を本格化させ、設計は内藤多仲の紹介で高島司郎が担った。実際に道場の建設も進んでいたが、完成を見ることなく東京の自宅で死去した。満61歳没。
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