商才と引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 04:40 UTC 版)
「アデリーナ・パッティ」の記事における「商才と引退」の解説
全盛期のパッティは演奏会を始める前に、一晩で5,000ドルの報酬を金貨で要求した。彼女の契約では、公演のポスターの中で彼女の名前は一番上に、しかも他の共演者の名前よりも大きく印刷せねばならないことになっていた。さらに契約は、彼女は「どのリハーサルに参加するのも自由にできる」一方で「どれに参加を強制されることもない」と取り決められていた。 名高いオペラ興行者のメイプルソン"大佐"は、彼の自叙伝の中でパッティの頑固な性格と鋭いビジネスのセンスについて回想している。それによると彼女はオウムを一羽飼っており、訓練を受けたその鳥はメイプルソンが彼女の部屋に入るといつも甲高い声で"CASH! CASH!"と鳴いていたという。パッティは富と名声を誇示するような装飾を身につけるのを楽しんでいたが、稼ぎを浪費するようなことはなかった。特に、最初の結婚が失敗に終わり財産の大半を失った(下記参照)後は資産を大切にしていた。彼女は資金の多くを賢く投資するなどして運用していた。極貧のうちにこの世を去ったテノールのスター歌手ジョバンニ・マリオのような浪費家だったかつての仲間とは異なり、彼女は贅沢な環境の中でも自分の生活を貫き通したのである。 1893年、パッティはボストンにおいてエミリオ・ピッツィの現在では忘れられたオペラの初演で、タイトルロールのガブリエーラ(Gabriella)を演じた。このオペラは彼女がピッツィに委嘱した作品であった。 10年後、彼女はアメリカでの最後のツアー公演を行う。しかしながら、これは彼女の年齢による声の衰え、衣装、そして涙のために、批評的にも、財政的にも、個人的にも失敗に終わった。この時以降、彼女はそこかしこで時おり行われる演奏会に出演したり、彼女が感銘を受けた邸宅であるウェールズの夜岩城に、自らこしらえた小さな劇場で私的に歌うなどしたりするだけにとどめた。1914年10月、第一次世界大戦の犠牲者を援助するために開催されたロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの赤十字社のコンサートに参加したのが、彼女が公で歌った最後の機会となった。彼女はさらに生きて大戦の終結を見届けた後、1919年に老衰で帰らぬ人となった。
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