唐蘭貿易の総元締
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元禄9年(1698年)、長崎町年寄筆頭であった高木彦右衛門貞親は「唐人おらんだ商売割方ならびに三ヵ一共に、総勘定の元締」に任じられ、翌10年(1697年)には銅代物替の総締役も命じられている。そして同10年に、唐蘭貿易総元締を江戸幕府から任され、代物替会所が設立された。 定高仕法で扱い切れなかった貿易品を物々交換によって取引する代物替は、元禄8年(1695年)に江戸の商人・伏見屋四郎兵衛が中国船の積戻し品を銅の代替で取引きすることを、幕府への1500両の運上(納税)を条件に認められたことから始まったものであった。それを2年後の元禄10年に、彦右衛門が2000貫目の積戻し品を、不足した銅に代って俵物によって買取ることを、2万両の運上を条件に認められたのである。 元禄11年(1698年)には、中国貿易に銀2000貫目分の煎海鼠、干鮑、鱶鰭、昆布などの俵物諸色による代物替が許可され、唐船の数も70隻から80隻となった。それに伴い、彦右衛門は同年4月に「異国(唐船阿蘭陀)商売吟味定役并(ならびに)御運上銀納方役」という勘定奉行直属の幕吏身分に任ぜられた。この時より、彦右衛門は外国貿易と運上事務を統轄することになった。こうして、彦右衛門を代物替頭取とし、町年寄4人と兼任を含む請払役12人・筆者小役15人の陣容で、代物替会所を改称した長崎会所が正式に発足した。 彦右衛門が幕府から支給された扶持米は80俵だったが、実際は10万石の大名以上の経済力をもつといわれており、既に苗字帯刀も許されていた貞親の威勢は非常に大きなものであった。また、貞親は元禄10年11月から翌11年5月まで江戸幕府の下に出頭し、3月28日には将軍に「礼拝」している。
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