吉継の敦賀統治
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吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、敦賀城改築の用材は秋田実季らが軍役として賦課されている。敦賀の地は吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能した。吉継は蜂屋頼隆時代から廻船屋を営む敦賀の川船座の頭分道川氏の一族・川舟兵衛三郎に間口19間、奥行10間の地子、諸役、舟三艘の役免除の特権を与えて支配体制に取り込み(天正20年2月、「道川文書」)流通を掌握した。文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際の用材「太閤板」は、道川氏一族の道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供している。この他、高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力し、慶長元年(1596年)に木幡山伏見城が築かれた際には高嶋屋久次が太閤板14間半、慶長2年(1597年)には高嶋屋良左衛門が50間を運んでいる。伏見城下においては現在の桃山町日向より北東に屋敷を構えた。 この他、慶長2年(1597年)2月に鍛冶屋の刀禰家へ地子本銭790貫文を永代免許したという記録が残り、地場産業の育成を図ったことが見て取れる。 水軍も編成され、後の関ヶ原の戦いで前田利長が小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいる。 西福寺に対し発給した禁制など、文書も相当数が現在に伝わっている。寺社への寄進も積極的に行い、秀吉の命を受けて常宮神社を再興、氣比神宮に朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進している。 「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」と言われ、家中の統制も行き届いていた。
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