台湾の実務外交の展開と摩擦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:12 UTC 版)
「中台関係」の記事における「台湾の実務外交の展開と摩擦」の解説
李登輝政権は発足当初から台湾の国際的生存空間を拡大させるため、名より実をとる「実務外交」を展開し、在外窓口機関を通じた非公式実務関係の強化を図った。1990年、GATTに「台湾・澎湖・金門・馬祖」名義での加盟申請を行い(2002年のWTO正式加盟に結実した)、1991年にはAPECに中華台北 (Chinese Taipei) 名義で、経済地域体という形式でありながら正式参加を果たした(以後2001年を除き毎年代表を派遣)。さらに1993年からは国連復帰(再加盟)活動も開始し、1993年にはそれまで香港などを介した間接投資のみだった大陸への直接投資も解禁した(以後2007年まで、台湾を承認する国家が国連総会に「中華民国」加盟を討議する委員会設置を求める総会決議案を提出し続けたが、中国の反対で却下されてきた)。李登輝はじめ、郝柏村・連戦両行政院長による首脳外交も活発化した。 これに対して中国当局は激しい外交工作で対抗、1988年から1995年までの間にサウジアラビアやイスラエル、韓国、シンガポールなど6カ国を台湾との国交断絶に追い込んだ。1994年に起きた千島湖事件で、中国の対応に憤慨した台湾では独立機運が高まった。鄧小平の後継指導者となった江沢民は、1995年1月、台湾に向けて一つの中国原則のもとでの敵対状態終結交渉など8項目を提案した(江八点)。しかし、3カ月後、李登輝は中国の武力行使放棄など6項目を逆提案、江八点を事実上拒否した(李六条、李六点)。これを受け、江沢民は「文攻武嚇」として李登輝を批判して武力を以て威嚇する姿勢を打ち出した。
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