厳詠春から紅船戯班
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:00 UTC 版)
詠春という名称については、中国の女性拳法家であったといわれる厳詠春という女性の名から取ったとされている。 厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をし、そこで豆腐を売って生活をしていた。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学ぶ。厳詠春はそれらを父から学び改良したという。また厳詠春が鶴と蛇の闘争を元に創案にしたとする説もある(傍ら、厳詠春という名は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であったという実在の人物を疑う意見もあるうえに諸説も存在する。たとえば古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れそこで詠春拳を作ったという伝承や、至善禅師が南少林寺の「永春殿」で練習していたためという説など)。 佛山の茶葉商人であり後に厳詠春の夫となる梁博儔がそれを学び、そして更に古伝の永春拳は梁博儔の唯一の弟子である広東省佛山の商人、梁蘭桂へと受け継がれていった。梁蘭桂は粤劇をこよなく愛しており、佛山から粤劇の「紅船戯班」が旅巡業にやって来た折りに、そこの役者であった黄華寶と船員の梁二娣に永春拳を教えることとなった。激しい修行の末、黄華寶と梁二娣は古伝の永春拳を継承し、これ以後、古伝の永春拳は、広東省周辺の民間芸能である粤劇の興行一座であった「紅船戯班」の内部で伝承されてきたとされている。当時は職業として古伝の永春拳を対外的に教授する者も稀であったため、古伝の永春拳は門外不出の様相を示しており、武館を開設する慣習もなかった。
※この「厳詠春から紅船戯班」の解説は、「詠春拳」の解説の一部です。
「厳詠春から紅船戯班」を含む「詠春拳」の記事については、「詠春拳」の概要を参照ください。
- 厳詠春から紅船戯班のページへのリンク