危機管理委員会の会合(6日)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/12 07:20 UTC 版)
「ルワンダ虐殺における初期の出来事」の記事における「危機管理委員会の会合(6日)」の解説
暗殺とその直後の詳細は、別記事ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件を参照。 1994年4月6日午後8時20分(UTC午後6時20分)頃、ルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナをはじめルワンダ軍(FAR)(当時。現ルワンダ国防軍)参謀総長デオグラティアス・ンサビマナ他の有力者を乗せた旅客機がキガリ国際空港に着陸しようとするところを撃墜された。国防相オーギュスタン・ビジマナは陸軍情報部長のアロイス・ンティウィラガボを伴ってカメルーンで会合に出席中だった。墜落から凡そ1時間半から2時間後、キガリの軍司令部に居合わせた将校は後任の参謀総長を選ばねばならないことに気付き、重苦しい雰囲気で会議を開いた。まもなく国防省の官房長テオネスト・バゴソラ大佐が現れ、その会合の議長を務めるのは彼の責務だと述べた。バゴソラは軍人としての評価は低かったが、政府与党であるMRDNとの政治的コネによってその地位に就いていた。ある大佐は国家警察長官のオーギュスタン・ンディンディリイマナ(en)少将の方がふさわしいと提案したが、ンディンディリイマナは辞退し、一部の将校を驚愕させた。 多くの者は権力の空白状態が生じることを危惧していた。アガート・ウィリンジイマナ首相は大統領職務の代行順位として法律上筆頭にあったが、殆どの将校は彼女に統治能力は無いと信じており、バゴソラは彼らが彼女の指導下に入るという選択肢を却下した。アルーシャ協定に従って行動すべきかも議論されたが、その場合は叛徒であるルワンダ愛国戦線(RPF)と今後について協議する必要があった。バゴソラは軍が政権を握るべきだと提案したが、賛同したのは国防省財務局長のシプリアン・カユンバ中佐ただ一人だった。殆どの将校はこれがクーデターに見えてしまうことは避けたいと必死だった。やがて誰かが、協定は依然として有効であり国連も国内に健在だと指摘した。将校たちは、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)に接触してUNAMIRの軍事司令官であるロメオ・ダレール将軍をこの会合に招き、クーデターが進行している訳では無いことを示そうということで合意した。尤も、フィリップ・ゴーレイヴィッチはこのときの状況を「フツ至上主義党のクーデター」だと述べている。
※この「危機管理委員会の会合(6日)」の解説は、「ルワンダ虐殺における初期の出来事」の解説の一部です。
「危機管理委員会の会合(6日)」を含む「ルワンダ虐殺における初期の出来事」の記事については、「ルワンダ虐殺における初期の出来事」の概要を参照ください。
- 危機管理委員会の会合のページへのリンク