南フランス侵攻及び第21装甲師団再編
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「エドガー・フォイヒティンガー」の記事における「南フランス侵攻及び第21装甲師団再編」の解説
1942年11月27日、彼はA戦闘団(Kampfgruppe A)指揮官としてトゥーロンのフランス艦隊奪取を目的としたリラ作戦(英語版)に参加した。1943年4月7日、第931機動砲兵大隊の指揮官に任命された。その数ヵ月後、いくつかの部隊と鹵獲兵器により新たな師団が編成され、第21装甲師団(ドイツ語版)(同名の師団が一度北アフリカで壊滅している)と名づけられた。フォイヒティンガーは予備役期間中に民間企業の技術者として働いた経験を活かし、パリにて鹵獲されたオチキス H35のシャーシにドイツ製の火砲を搭載した独自の突撃砲やロケット砲車を開発したという。 この「新兵器開発」は総統アドルフ・ヒトラーが評価するところとなり、彼自身に師団が与えられる事となった。1943年8月1日、彼は少将(Generalmajor)に昇進すると共に第21装甲師団の師団長に任命された。 師団長に着任したフォイヒティンガーは部下や上司、また他師団の司令官から、しばしば悪評を買っていた。彼はナチ党要人との友好関係に基づく褒賞として装甲師団の師団長に任命されたのであり、第一次世界大戦から通じて砲兵科将校であり続けたフォイヒティンガーは装甲部隊を率いた経験など一度も無かったのである。師団の近代的な通信システムの編成などに持ち前の優れた組織力を発揮したものの、やがて自らが師団長に適さない人間だと自覚するようになる。訓練や指揮を各連隊長に一任し師団長の責務をすっかり放棄したフォイヒティンガーはパリに篭り切りとなってしまった。
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