南ブルターニュへの再度の襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
「ロリアン襲撃」の記事における「南ブルターニュへの再度の襲撃」の解説
イギリス艦隊は続いてロリアンの東へ向かい、沿岸襲撃を行ったが、10月10日に嵐に遭って輸送船5隻計900人が艦隊本隊とはぐれた。特に命令も下されなかったため、これらはぐれた輸送船はイギリスへ戻った。遠征軍の指揮官には増援として3個大隊が承諾されたが、増援が到着することはなかった。 キブロン半島(フランス語版)は10月14日から20日まで占領され略奪を受けた。ウア島(英語版)は10月20日に、オエディック島(英語版)は10月24日にそれぞれ攻撃を受けた。セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンにより両島に築かれた要塞は戦闘を経たずに占領され、破壊された。ベル=イル=アン=メールはイギリス艦隊が離れる10月29日まで封鎖された。これらの襲撃は同地域の貿易を阻害したが、オーストリア継承戦争自体には何ら影響を与えなかった。 同盟軍がロクールの戦いで敗北した、およびフランスの増援がブルターニュに向かっているとの2つの報せが届くと、遠征軍の指揮官はイギリスに戻ることを決定した。しかし艦隊は強風に遭ってばらばらになり、一部がスピットヘッドに向かったほか、輸送船の大半などレストックの指揮下にあったほかの船はコークに向かい、11月のはじめに到着した。 遠征軍敗北の報せはレストックより先にイギリスに着き、彼は指揮官から辞任することを余儀なくされ、1か月後に死去した。同年12月、ザ・ジェントルマンズ・マガジン(英語版)は匿名の手紙を出版した。手紙を書いた人は自分が遠征についてよく知っているとして、レストックが遠征中にとある娼婦の影響を受け、彼女に作戦会議を仕切ることを許したと主張した。ニコラス・ティンダル(英語版)は遠征の失敗について説明したとき、これらの主張を繰り返した。
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