南ブルターニュの要塞化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
「ロリアン襲撃」の記事における「南ブルターニュの要塞化」の解説
イギリスの襲撃はフランスにブルターニュの守備の貧弱さを思い出させた。そのため、1750年以降には関連した政策が実施され、デギュイヨン公爵がブルターニュ総督(英語版)に就任した。彼はブルターニュ海岸を20の"Capitaineries"に分け、それぞれ1個大隊を駐留させた。また大隊の訓練と陸路での連絡線を改善した。 新しい防御網がロリアン周辺で作られた。ロリアン工廠(フランス語版)を守るべく、1761年から1779年まで角堡(英語版)がロクミケリック(英語版)とパン・マネ岬(Pen Mané)に建設された。南西部の海岸を守るべく、1749年にはフォール=ブロケ(フランス語版)で砲台が建設され、1755年にさらに拡張された。そのさらに西には1756年に建設されたフォール・ドゥ・ロック(フランス語版)がある。内陸では1755年にケルラン(Kerlin)で、1758年にル・ファウェディック(Le Faouëdic)でルネットが建造された。 新しい要塞が西のグレナン諸島から東のデュメ島(フランス語版)に至る所まで建設された。デュメ島では1756年から1758年にかけて円状の砲台と兵舎が建設され、キブロン半島(フランス語版)では新しい要塞が1760年に完成、パンティエーヴル(フランス語版)からの侵入を阻止した。ウア島(英語版)とオエディック島(英語版)は1757年から1759年にかけて再建され、また1755年にはグレナン諸島でシゴーニュ要塞(フランス語版)が築かれた。
※この「南ブルターニュの要塞化」の解説は、「ロリアン襲撃」の解説の一部です。
「南ブルターニュの要塞化」を含む「ロリアン襲撃」の記事については、「ロリアン襲撃」の概要を参照ください。
- 南ブルターニュの要塞化のページへのリンク