協和義塾から古川学校へとは? わかりやすく解説

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協和義塾から古川学校へ(1873-1886)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/08 08:38 UTC 版)

飛騨市立古川小学校」の記事における「協和義塾から古川学校へ(1873-1886)」の解説

1873年明治6年4月古川住民有志出資して協和義塾開校した協和義塾住民出資という点で従来寺子屋私塾とは異な教育機関であった開校時点では壱之町の元収納会所(旧本陣)を校舎充てていたが、同年10月本光寺へ、翌11月には三之町真宗寺移転した。また児童数増のため真宗寺だけでは収容しきれなくなり、壱之町の中村右衛門邸を分校として女子児童および裁縫生徒通学先にすることで対応した協和義塾12月に「学校設立伺」を筑摩県令・永山盛輝提出し1874年明治7年1月15日協和学校改称正式な学校となった協和学校引き続き男子真宗寺女子中村邸に通学するという状態だったため、真宗寺の方のみを「協和学校」、中村邸を「協和女学校」として呼び分けることもあったという。 1874年明治7年7月頃に協和学校児童数22人の上気多学校統合した1875年明治8年7月協和学校から古川学校改称した1877年明治10年6月には文部大書記官西村茂樹古川学校視察訪れたが、「寺院借用し不都合の校なり」と日記書いている。1878年明治11年3月21日地鎮祭挙行して向町堰の上新校舎建設開始し同年9月8日上棟式行い9月11日新校舎移転した。ただし開校が行われたのは、1年以上経過した1879年明治12年11月2日のことである。この新校舎当時流行合わせた擬洋風建築で、建設費1,240円は町民からの寄付全額賄われた。校舎2階建てで390人収容可能な設計であったため、当時児童数155に対して余裕があった。 1879年明治12年12月には上町学校統合したことにより、当時古川町域の学校古川学校の1校に集約された。1885年明治18年)になると児童数463人になり収容定員超えたため、突貫工事既存校舎の隣に増築校舎建設し同年9月3日落成開校式を執り行った増築校舎擬洋風建築2階建てで、荒城川挟んだ対岸高山警察署古川分署含め3棟擬洋風建築立ち並ぶことになった。擬洋風校舎見栄え重視建築物であったため、天井高が低い、窓が小さく数も少ないため採光が不十分、北向き建てられたため冬季北風さらされる、など決し使い勝手良くなかった

※この「協和義塾から古川学校へ(1873-1886)」の解説は、「飛騨市立古川小学校」の解説の一部です。
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