協力内閣運動とは? わかりやすく解説

協力内閣運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 15:28 UTC 版)

安達謙蔵」の記事における「協力内閣運動」の解説

1931年昭和6年9月満州事変勃発し、さらに10月には国内軍部クーデター未遂発覚する十月事件)。経済面でもかねてから金解禁影響による経済悪化、さらにイギリスの金輸出禁止端を発するドル問題受けて解決策見出せ第2次若槻内閣行き詰まり見せていた。内相として軍部不穏な動き熟知していた安達はこうした状況危機感強めていた。また民政党内部でも自派中野永井は、幣原喜重郎外相協調外交幣原外交)に批判的だったこともあり、政友会協力しあって連立内閣作り軍部とも提携して挙国一致内閣難局切り抜いていくことを考えた10月28日政権運営自信失っていた若槻首相から事態解決について相談持ちかけられ安達協力内閣構想若槻に示すと、若槻軍部台頭による政治無力化を防ぐためにも政友会との連立は必要と考えてこれに賛同した安達政友会久原房之助合意とりつけ、協力内閣運動の声明発表したりして、政友会総裁犬養毅首班とする連立内閣成立向けて動いた軍部では小磯国昭、さらに西園寺にも構想打ち明けている。政友会では松岡洋右秋田清前田米蔵なども当初協力内閣構想積極的だった。 しかし協調外交主張する幣原外相と、緊縮財政と金解禁維持主張する井上準之助蔵相らの強い反対を受けると、当初安達と同じ考えだった若槻豹変して協力内閣考え捨ててしまう。また政友会内部でも森恪はじめとする幣原外交批判的な勢力強く11月10日議員総会において金輸出の再禁止強く求め声明が出るに至って民政党政策面で相容れる見込み小さくなった。 12月9日から10日にかけて安達腹心富田幸次郎奔走したものの、若槻翻意させることはできず、かえって臨時閣議安達内相辞職求められることとなった。既に政友会から合意得ていた安達面目はつぶれ、引くに引けないまま安達辞職拒絶して自宅に引きこもってしまう。これで閣議空転12月11日若槻はついに閣内不一致理由内閣総辞職至った西園寺協力内閣構想不発終わったことを知ると、次期首班には迷わず政友会犬養毅総裁奏薦犬養内閣成立となったかねてから久原安達独走懐疑的だった犬養政友会単独組閣したが、これを受けて安達中野数十と共に民政党から脱党した

※この「協力内閣運動」の解説は、「安達謙蔵」の解説の一部です。
「協力内閣運動」を含む「安達謙蔵」の記事については、「安達謙蔵」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「協力内閣運動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から協力内閣運動を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から協力内閣運動を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から協力内閣運動を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「協力内閣運動」の関連用語

協力内閣運動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



協力内閣運動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの安達謙蔵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS